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よっちゃん^^

Author:よっちゃん^^
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菱の門

三の丸から、二の丸へ向かう途中にある、城内でもっとも大きな門
両柱の柱上に木彫りの菱の門がある 菱の門はそこから来ている。

081122_Himejijyo_007.jpg

菱の門をくぐると、三国堀という空堀に雨水がたまった池がある
31m四方の圃地堀で、池田家が播磨・備前・淡路の三国を領して
いることから、その名が付いている。

ここから見上げる天守閣は、とてもきれいで、
この日は、千姫様との記念撮影が行われており
ボランティアの方が付いて、大勢の人が一緒に撮ってもらってました。

ちなみに自分も^^

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まっすぐ行けば、いの門・ろの門ですが
左の階段をのぼり、西の丸に向かう

081122_Himejijyo_009.jpg

ワの櫓があります、ちょっと桜を数せて見ました、もえあがるように見える
ここから塀の中を、百間廊下をたどって、長局・化粧櫓まで行ける

081122_Himejijyo_010.jpg

塀の銃眼から外の景色を見たところ、下まで、かなりの高さがある。

081122_Himejijyo_011.jpg

西の丸からです、ここからの天守閣は見事です、絵葉書の定番ですね
白鷺城というにふさわしい姿で、立っています。


姫路城

南北朝時代の元幸弘3年(1333)赤松則村により、砦として築かれたの
が最初で、その子孫の貞範が城として使ったのが正平元年1346
それでもまだ、砦規模の小さなものだった

山名氏に奪われるが、応仁の乱で細川氏についた、赤松氏が奪還した
16世紀になって赤松支族の小寺氏が播磨を治め、その家臣の黒田重隆が
城代になり、姫山を地形を生かすよう、平山城へと改修されていく

1576年、天正4年 織田信長の命で、羽柴秀吉が毛利を攻めるべく
姫路へやってきた、小寺氏は毛利につき、秀吉方と戦うことになるが、
最終的には、秀吉が勝った。小寺氏の家臣だった黒田考高は
「秀吉」とよしみを通じており、以後もそのまま仕えるることになった

1580年 天正8年 黒田考高の進言から、秀吉は城の大改修を行い
石垣の城壁、三層の天守閣・大規模な城下街を整備した
また、山陽道を曲げて、姫路の城下を通るように変えられている。

1583年 天正11年 豊臣秀長が入るも、
1585年 天正13年 秀長に変わり、木下家定が入る

1601年 慶長6年  木下家定に変わり、関ヶ原で戦功をあげた
徳川家康の娘の婿 池田輝政が52万石で入城し 
その年から、8年かけて、大改修がされました

秀吉恩顧の西国大名の監視するため、姫路城を整備したと言われる

1617年 元和3年 江戸時代に入り、後を継いだ、光政が幼かったことから
池田家は、因幡へ そして伊勢桑名から本多忠正が姫路にやってきます

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西の丸、桜の紅葉と気持ちの良い庭園 向こうが南側


1617年 元和4年 忠正の子 忠刻に「千姫」が嫁ぎ
これを機に西の丸が整備されることになり、今の形になりました

夫婦仲のほうはというと、大変睦ましく、子供が二人生まれるものの
長女・勝姫4歳 長男・幸千代が3歳で早世して以降は、流産を繰り返し
子宝には恵まれませんでした。

その後、姫路城は、奥平松平家、越前松平家、榊原家 といったように
次々と藩主が入れ替わり
1749年 寛延2年 上野前橋城の、酒井氏が入城
ようやく藩主家が安定することになるが・・・これほどの規模の城を
姫路藩15万石では厳しく、藩の財政を圧迫することになった


鳥羽・伏見の戦いでは

徳川慶喜と共に 城主・酒井忠惇は老中の職にあり、朝敵とされたため 
岡山藩の池田輝政の子孫 池田茂政の部隊が威嚇射撃(空砲含む)を
行って、福中門に命中した そのさなか北風正造という勤王豪商が、
15万両の私財を官軍にを寄付して、それをくいとめた
この間に、留守を預かる家老たちは開城を決定

この決断で、姫路城焼失を免れた

明治に入ると、陸軍の多くが各地の城に配備され
姫路城では、多くの武家屋敷、武蔵御殿・同櫓・3の丸が、とり壊され
1882年 明治15年には、天守閣のある備前丸にあった建物が
失火のために焼失している。

1928年 昭和3年 史跡の指定
1931年 昭和6年 大・小天守閣・門など 国宝に指定され
1934年 昭和9年 西の丸の渡櫓が豪雨で崩壊それを契機に
1944年 昭和19 まで、第1期の大修理が開始されたが戦争で中断

太平洋戦争では姫路市はB29の空襲により 火の海となったが、
姫路城は黒く染めた網などで隠すなどしたが 天守閣に着弾したものの
焼夷弾が不発など、西の丸へは不発もしくは迅速に消火し
被害は本城跡の中学校校舎のみと奇跡的に助かった。

1950年昭和25年 中断中の大修理が再開 56年3月まで行われ
1955年までに天守閣以外の修理完了

1956年からは、天守閣の修理がはじまって
城の基礎に鉄筋コンクリートが姫山の岩盤に入れられた
あと、天守閣を支える巨大な東西の心柱の西心柱が腐っており
交換用の木が運搬中に折れ繋いだ形で使われている

本来の西心柱も二本継ぎで作られ、組立時に干渉するからだそうだ

1964年 昭和39年 天守閣の修理完了
1993年 平成5年  世界遺産に登録
2006年 平成18年 日本100名城に選定
2007年 平成19年 日本100名城スタンプラリーが開始

2009年より 2014年まで 平成の大修理がおこなわれる予定 

(Wikipedia)参考にしました。

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西の丸に立つ石碑です、奥に見えるのは、化粧櫓付近です

千姫の●や むか~● 夢の跡  

順番は、まんなか・右・左だそうですが・・・よく読めません・・・
達筆すぎてよくわからない・・・・^^:::

長局には、千姫をお世話する侍女たちの部屋がありました
面白いのは、奥に行くほど位が上がり敷居が高くなることです

化粧櫓は、千姫が身支度や化粧直しをしたところ
ここには、千姫の貝合わせの様子が再編されています

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西の丸を抜けてきて「はの門」に向かいます
天守閣の向きも変わり、表情豊かで飽きない眺めです。

右から、大天守の手前に西小天守 左は乾小天守です

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タグ : 姫路城 西の丸 千姫 天守閣 081122姫路0系

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